1945年の8月9日11:02、長崎に原爆が落とされました。
長崎に生まれ、長崎で育ち、長崎に住んでいるものとして何か伝えることができないかという気持ちがありましたので、書かせていただきます。
1945年の8月9日午前11時2分、長崎に原爆が落とされ、約7万4千人の方々が亡くなりました。
現在までに核兵器が実践使用されたのは、広島と長崎への2発の原爆投下のみです。
そういうこともあり、小学生から中学生の間、夏休み前に平和学習という時間が設けられていました。
この学習では、戦争時代のことを調べたり、戦争を経験した人の話を聞くという内容で、中でも原爆で被爆した人の話は、20年以上経った今でも覚えているほど壮絶な内容でした。
内容について、本人でもない私がここに載せるのは、本当の体験とは少し異なる気がするので、同じように被爆された方の証言が、長崎市のページにありますので、リンクを掲載しておきます。
実際に原爆を体験していない私が、何を伝えることができるのか。
いろいろ考えた結果、今も現存している被爆建造物について伝えていくことができるのではないかと考えました。
実際に2箇所訪れたことがありますが、住吉町には当時の三菱の兵器工場跡が保存されています。
この場所は、名前の通り三菱の兵器工場で、工場を空襲を避けるために、トンネルとして工場を作ったそうです。
約300mのトンネルが6本(現在、外に通じているのは2本のみ)掘削され、工場として利用されていました。
原爆が爆発した後は、多くの建物も吹き飛んだため、この場所に連れてきて休ませるのが、怪我人への1番の介抱だったと展示された看板に書いてありました。
8月7日~8月10日、10月24日~10月30日の期間中、特別公開されています。
見学は無料です。
また立山町には、非常時に都道府県知事が避難し、連絡手配や指揮をしていた「長崎県防空本部跡」があります。
この場所は、直接被爆はしていませんが、当時の緊迫した状況でのやりとりについて掲示してあります。
また一般的に防空壕と聞くとただ掘っただけのイメージですが、県という公で利用する建造物だったためが、コンクリートで建造されています。
(一部、当時の物資不足を象徴するように作りが簡素な部分もあります。)
見学は無料です。
この他にも長崎には、被爆した建造物が残っています。
- 一本柱の鳥居
- ジャイアントカンチレバークレーン
- 浦上天主堂
- 山里小学校
- 城山小学校
- 長崎大学医学部
- 三菱重工業長崎研究所船型試験場
- 山王神社
今後、1つ1つ回り、私なりに紹介していきたいと思います。
余談ですが、Googleで「長崎」と検索すると以下のような画像が出てきます。
夜景を中心に平和記念像や世界遺産に登録された教会や軍艦島などが表示されています。
しかし、「NAGASAKI」と検索するとその結果は少し変わってきます。
全体的な色合いの違いからも分かりますが、原爆に関連するような写真が多く表示されるようになっています。
Googleの意図していることはよく分かりませんが、少しでも原爆について知っていただけたり、平和のありがたさを感じていただけると長崎に住む人間としてうれしく思います。